【アイチュウ】前進
ノアプロ小説です!地雷は踏んでね
あっ、と柚季は思わず声を上げそうになった。
しかし、顔を見ただけで声を上げるなんてそんな失礼な真似は出来ない。それでも彼女の立場上出会ってしまったために無視するわけにもいかないとその場で困り果ててしまった。
色づく街の人混みの中だ。きっとこちらから声をかけなければ彼は気が付かないだろうから、分からないだろう。声をかけたほうがよいが、かけなくても特に咎められることはないか。
いやいや、こんなところで声をかけるか否か自己問答しているほうが無駄だなと意を決した。
――逃げよう。
と思った矢先に、声をかけてきたのはあちら側だった。
「ねえ、君はいつまでそこでじっとしているつもりなの?」
「の、ノアくん。こんにちは……奇遇だね」
「そうだね。挨拶する前に、君は僕から逃げ出そうとしたようだけれど」
「そ、そんなことはないよ?」
とぼけたって無駄だよ、といいたげに彼は首をすくめた。
彼――ふわりと柔らかい金糸の髪を花びらのように漂わせ、陶磁のような光を吸収してしまう肌を持つ――は柚希がプロデューサーとして面倒を見ているアイドルの卵、アイチュウのひとりだ。
「こんにちは。せっかくオフの日に出会ったんだし、この後予定がなければ一緒にお茶でもどうかな?」
笑う彼の造形があまりにも美しくて、何度見ても本当に人間なのだろうかとどきりとしてしまう。
「ごめんなさい。せっかくのお誘いだけど、今日は」
「そう、残念」
特に根掘り葉掘り何があるのかといったことを聞いてこないところも、ノアの美点だ。柚希は誰よりもアイチュウたちのことを知っておかなければプロデュースなど務まらないと考えているため、彼らの魅力に気がつくたび小さいことでも心のノートに綴じていくことにしている。
「じゃあまた今度、そのときには……ね。期待してるから」
ノアはそう言って、手をひらひらと振って去っていった。
柚希は何も言えずに彼の去っていく背をじっと見つめた。
鬼から逃げられた、だなんてつい考えてしまって柚希は自己嫌悪に陥った。
以前からノアは、プロデューサーである自分に気があるような言動でからかってくることがあった。しかしそれは他のアイチュウたちも同様であったため、彼女自身はそこまで気に留めていなかった。それでも、彼らは人の視線を釘付けにするアイドルの卵、全く気になっていないとか意識しないとかそういったことはどうしても無理だった。デートをしよう、とか君に似合うと思ったんだ、なんて甘い言葉で自分をプロデューサーとしてではなく女性として扱う彼に胸がざわついた。ときめいたといっても良い。プロデューサーとアイチュウという関係は少しずつ、緩やかに、波にさらわれる白い砂城のように崩れていった。
気がついてしまったのだ。ノアのことをアイチュウとして、生徒として見ているのではなく、ひとりの男性として見ている時間があるということに。
そしてついに先日、ノアから真剣な告白を貰った。ありきたりだなんて馬鹿にされれば柚希の方が怒ってしまうほどに、真っ直ぐで真剣な言葉だった。
「僕は本気だよ。本気で君を――ひとりの女性として愛している。君はどう?」
そう聞かれて、彼女は黙り込んでしまった。何も言えなかった。プロデューサーという立場と、彼女自身の心がぶつかりあっていた。
甘い甘い薄氷の日々は、すでに音を立てて軋んでいたのだ。
返事はゆっくりでいいから、と彼は心情を察してそう付け加えてくれたから、柚希は胸をなでおろした。――後からそんな自分をひどく嫌悪しもしたが。
「私は……ノアくんのことを……」
どう思っているのか、分からない。
彼の魅力は誰よりも知っているつもりだ。当然だ、彼を輝かせる魔法をかけるのが自分なのだ。
しかし、すべてを知っているようで、結局何も知らなかったのだ。王子様のような彼の笑顔を、男性として意識したときにはどこまでも目に焼き付くようなものだということも、彼の言葉ひとつひとつが、古いレコードを何度も聞いてしまうように自分を魅了してしまうことも。
――私は……
答えが出ない。いや、答えがそこにあるからこそ、どうしていいのかわからないのだろう。そう、誰かに言われたことを思い出した。
【Fin.】
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