【めいこい】遣らずの雨よ、降れ
満月の日に、君はやってきた。
本当に突然、君はやってきたんだ。
「ほら、動かないでよ。動いたら絵が描けない」
「うう、でも」
俺の眼前にいる芽衣はもじもじと体を動かす。
俺は半刻ほど前に、彼女に絵のモデルを頼んだ。彼女が快く引き受けてくれたのはいいものの、じっとしていることに耐えられないらしい。何度動くなと釘を差しても、彼女には難しいようだ。
「何?」
「あの……ちょっと休憩しませんか?」
「別にいいけど。君は休憩ばかりだね?」
「すみません」
そう、芽衣は何度も何度も休憩をせがんだ。半刻の間にいったいどれほど休憩しただろうか。
ちょうどそう言ったとき部屋にノックの音が響いた。入るよ、と声をかけ俺の部屋に入ってきたのは家主である鴎外さんだ。
「こら春草、いくら絵のためとはいえあまり女性を拘束するものではないよ」
「今休憩にしたところです」
鴎外さんの言葉になぜか少しむっとして俺は答える。
別に鴎外さんのことが嫌いなわけではない。ただ単に、なんとなく、だ。自分でもよく分からなかった。
「ほう、ならちょうどいいではないか。街でもまわって、なにか買ってくるといい。本当は僕が子リスちゃんをエスコートしたいところだが、あいにく仕事が立て込んでいて……それが出来ないのだ」
鴎外さんはそう言って、俺に財布を投げた。
「少ししかないが……まあ、十分だろう」
「ありがとうございます」
少しというにはずっしりと重たい財布を受け取った俺は鴎外さんにお礼を言った。
「ありがとうございます!」
芽衣もあわててお礼を言う。
「なあに大したことはないよ。芽衣、遠慮せずに春草に山ほど買ってもらっておいで」
「はい……!」
俺ははあ、とため息をつく。彼女は大食らいだ、特に肉。
街で好きなものでも買ってこいと鴎外さんは言うが、彼女が好きだけ買えば――彼女の頼みを断るのは鴎外さんが嫌がるだろうから、出来ないし――かなりの金額になるはずだ。いやそれでも、牛鍋よりはましか。
「分かりました、行ってきます鴎外さん」
「行ってきますね! 鴎外さん」
「うんうん、楽しんでおいで」
鴎外さんは玄関から俺たちに向かってひらひらと手を振った。
***
「春草さん、あれも」
「……はいはい」
さっき、ラムネを飲んだばかりの芽衣が次は飴を指さす。二人分買って、片方の飴をやる。そして芽衣はにっこりと笑って美味しそうに食べ始める。
「これ、美味しいですね」
「うん」
二人で椅子に腰掛けて食べているとき、俺はふと空を見上げた。さっきまでは快晴だったのに、灰色の雲が空を覆っている。
「雨、降りますかね?」
「どうだろう」
「気象衛星とかあったら便利なのに」
「気象……えいせい?」
芽衣の不可解な言葉に俺は疑問形で返す。
あっなんでもないです、と芽衣は慌てて首を振って昨日屋敷の前で猫を見かけたんです、とか当たり障りのない話題を切り出した。
飴を食べ終えた俺たちは小物屋に行った。芽衣が可愛い小物を見たいと言ったからだ。俺は特に興味が無かったので当たり障りがない程度に相槌を打っておいた。
いくつか気に入ったらしい小物を芽衣はにこにこと嬉しそうに抱きかかえていた。
「春草さん、そろそろ帰りましょうか」
「……ああ、そうだね。あまり長く外出すると鴎外さんを心配させるし、絵の続きも描きたいしね……」
「春草さん?」
芽衣が俺を心配して顔を覗きこんできた。
「具合悪そうですよ? 大丈夫ですか」
具合なんて、悪くないけれど。芽衣がそう言うということは俺の顔色が悪いんだろうか。
よくわからないが、大丈夫と返事をして歩き出そうとする。
家に帰って、鴎外さんに挨拶をして、彼女をモデルに絵を描く。
帰宅後にすることを頭のなかで整理した。そこまで整理して、なぜか歩き出そうとするけれど俺の足が動かない。どうして? 俺自身が一番戸惑ってしまう。
「春草さん?」
芽衣が再び俺を心配して声をかける。
「やっぱり具合が悪いんですか? それなら、なおさら早く帰ったほうが」
「いや、帰りたくない」
俺は自分の言葉に驚いた。どうしてこんなことを言ってしまったのだろう。芽衣が不思議そうな顔をしているし、何か言わないとと必死に言葉を紡ぐ。
「ああほら、さっき見ただろ? 雨が降りそうだった。傘を忘れたからって買うのも嫌だし、ひと雨降られるのも嫌なんだ」
「ああ、そうですね。確かに、雨に濡れるのは嫌ですね」
そうかそうか、と芽衣が納得してくれて助かった。
ああ、失言をしてしまった。何がしたいんだ俺は。
自分を責めるけれど、どうにもならない。店先までずるずると歩くと、雨が降るどころか、雲はさっと引いている。
「大丈夫そうですよ、春草さん」
「ああ……そうだね……雨は降らないみたいだ」
俺は心底残念そうに、そう呟く。芽衣はやはり不思議そうな顔をしている。具合の悪い人間が熱でもあって、おかしなことを言っていると思っているのだろうか。
自分でも、なぜ芽衣を困らせるようなことを言ったのかわからないし、気分が悪いわけでもない。いや、今は少し悪い気がする。芽衣と店の中を見て回っているときは何も感じなかったのに、おかしな話だ。店を出て帰ろうとしたあたりから、どうも俺はおかしい。
雨が降らないことを恨んで、俺は芽衣と家路についた。
ああ、雨が降ってくれれば、もう少し店で芽衣と――――
そこまで考えて、俺はひとりで苦笑いした。
『遣らずの雨』という言葉を思い出した。
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